所長就任あいさつ

三橋 徹

所長 三橋 徹
 こんにちは。4月から田島診療所の所長を引き継ぎます三橋徹(みつはしとおる)です。
 私は、1985年頃、医学生の時に全日本医学生連合が主催した労災職業病フィールド合宿に参加して、横浜で日雇い労働者の街ことぶき町のAA(アルコホーリックアノニマス)や港湾労働、食肉市場などを見聞きさせていただき、アルコール依存の問題や働く中で病気になり命を害してきた現実にショックを受けました。そのつながりで、NPO法人 東京労働安全衛生センターの事務局に入り、労働者住民医療連絡会議の活動に参加して、田島先生ともお会いして今日に至ります。
 整形外科では、一般的な腰痛や頸肩など関節の痛みに薬や注射の治療をすることが多かったのですが、効果が一時的であることに悩みました。そこで、研修中に発表を聞いたAKA治療1999年頃に始めたのですが、技術が難しく苦しい日々が続きました。しかし、中に経過のとても良い方がいらっしゃるのでやめられず、続けるうちに経過の良い人の割合が増え、現在では広い範囲の機能障害になくてはならない診療方法になっています。腰痛症や頸肩腕障害など作業が関連して症状が継続する状態にも、作業の改善方法を作業者と話し合うほか、AKA―博田(はかた)法を含め運動療法が役立ちます。
 東京では、三つの福祉職場で労働者の健康を守る産業医の仕事も行ってきました。その活動では、スタッフや利用者さん、みんなが安全に健康に快適に生活し働くことができることが目標になりました。そのためには、医師など専門家のコントロールでは不可能で、現場のスタッフや利用者さんの声や力によって継続し実現できることを学びました。
 最近は、家族間の問題をはじめとして、アルコールや仕事依存症の回復の課題を自分の問題としても取り組んでいます。自助グループミーティングを始めていますので、ご希望の方はご連絡下さい。日常診療の中でも、後から振り返って宝物と思うような人間関係を結びたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
2010年4月 



田島先生との出会い、そして田島診療所のこれから

田島診療所 千住 典男

千住 典男
 2006年8月26日午後1時10分頃、田島隆興先生は午前中の診察を終えたあと、急性クモ膜下出血および急性心不全による意識障害で倒れ、翌27日午前0時40分、関西労災病院にて、ご家族の見守るなかで永眠されました

 私は、このたび、田島先生の後任として、新たに所長に就任しました千住です。1978年関西医科大学を卒業し、同大学附属香里病院第2内科で研修し、その後数ヵ所の病院、診療所に入職し、今日に至っております。

 田島先生との関わりは、先生の友人で、私の大学の先輩でもある、京都の永原宏道先生を通じて始まりました。1969年、佐世保市での空母エンタープライズ入港反対集会で機動隊に追いかけられたときのことですが、田島先生の逃げ足の速かったことを今でも鮮明に覚えております。

 10余年後、永原先生の診療所で、田島先生と再び会う機会を得ました。そのときの、じっくりと人の意見を聴き、的確なアドバイスをし、一度決めたら躊躇することなく、前に進む姿はさすがと言うほかはありませんでした。

 そして、3年前、私は田島診療所の常勤医師として勤務することになりました。田島診療所では、在宅医療を中心に、じん肺アスベスト問題、また、認知症に関わってまいりました。今後も、訪問診療・訪問看護の更なる充実、そして田島先生のライフワークであった労災・職業病への取り組みの継続を目指します。
 
 田島先生に、安心して天国への階段を登って行っていただくためにも、全職員が心をひとつにして、目標に向かって進んで行く姿勢を示す必要があると思います。

 幸い、非常勤の4名の先生方も、それぞれ、主たる勤務先で中心的な役割を担われ、ご多忙にもかかわらず、田島診療所のために診療数を増やしていただくなど、ご助力いただき、整形外科の診療態勢も、十分とは言えないまでも整ってきました。

 田島先生の遺志を受け継ぐという意味で「田島診療所」の名称は変わりません。今後も、地域の皆さん、労災・職業病の患者さん達と共に、「地域で生活と暮らし、健康をみんなで支えあう医療生協」を目指して頑張ります。どうぞ、よろしくお願いいたします。
2006年9月1日