私病休業から労災認定を勝ち取る
ひまわりの会・労災被災者交流会 但馬 千穂

 私は、30年間、三洋電機の工場で働いています。
 1999年に右肘が痛くなり、2年半休職しました。当時は、治るかどうか分からなかったし、もし治らなければ仕事もできないし、収入もなくなればどうしたらいいのかと不安でした。会社や組合に労災にしてほしいと言ったけど、ダメだと言われました。
 インターネットで探した労働センターの東京本部に電子メールを送って、そちらの方に関西労働センターの片岡さんを紹介してもらいました。片岡さんの勧めで、病院も田島診療所に転院しました。被災者の会に入り、会の皆さんのご協力のもと、労災を申請することができました。認定されるかどうかは、50%ぐらいという厳しい状況のなかで、再三、労基署交渉を行いました。その過程で、管轄外の健康保険の関係にまで口出しするという労基署の越権行為に対し、抗議して撤回させ、2004年に労災認定を勝ち取りました
 認定後社内健康保険組合差額の精算返納を申し入れましたが、1年半経過しても、理由もなく、未だに精算処理をしようとしていません。会社、担当者の責任意識の希薄さの現れです。会社は経営状況も厳しく、現在、社員給与の5パーセントがカットされていますが、それは来年まで続く予定です。従業員に信頼される、身分保証、適切な業務処理を切望しております
 今後も、交流会の皆さんと、力をあわせて頑張っていきたいと思います。


「一人では何もできない」 ―支援に支えられて―
ひまわりの会・労災被災者交流会 登野 一哉

 私は、大型トラックの運転手でした。2006年3月6日、大阪から名古屋まで貨物を運送中、追突事故により負傷しました。会社から適切な労災手続きをしてもらえず、連絡もなく、傷の痛みは増加する一方で、近くの病院で受診し、相談しましたが、訴えを聞き入れてもらえず、その後、会社より一方的に解雇通知。内容は、退職金、予告手当、事故当日の賃金までカットするというものでした。
 もう精神的に落ち込み、妻子をこれからどう養っていったらいいのか、途方に暮れていました。自分では労災申請手続きのやり方も分からず、会社の通告内容、労災関係について全港湾労働組合の先輩に相談し、田島診療所を紹介されました。
 田島先生の診察を受け、通院治療ができるようになり、事故による負傷の診断書をいただき、会社へ提出しましたが、会社は労災と認めず、全港湾労組より会社と交渉していただき、長い不安の毎日でしたが、組織の支援でやっと労災認定をしていただくことができました。
 田島先生より、ひまわりの会労災被災者交流会を紹介され、会員加入し、運動に参加し、治療に専念するなか、突然、思いもよらぬ田島先生の訃報が届きました。その悲しみ、不安も癒えぬ間に、労基署より電話で傷病症状無視の労災打ち切り通告を受けました。
 労災被災者交流会より、柴田先生が診断所見、療養内容の回答を労基署に提出してくださっていることを確認、厳しい抗議交渉をしていただき、労災打ち切りを撤回させることができました。
 一人では何もできなかったであろうことも、全港湾の先輩、診療所の田島先生や柴田先生、交流会の方々から助けてもらいました。田島診療所に来て、いろいろな人と触れあい、会話をし、看護師さんをスベッタ冗談で笑わし、これからもよろしくお願いします。

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